テラスハウスを参考に、ものの見方と考え方について。
フジテレビの番組、『テラスハウス』が映画化されることになりました。おめでとう。
番組は一回チラッと見ただけなんですけどね。
さて、先に言っときますけど、決してテラスハウスそのものを悪く言っているわけではないです。そこだけは理解をお願いしますm(_ _)m
では、テラスハウスについては各方面で色んな情報が出てる。まあ、ヤラセだ、とかヤラセじゃない、とか。
私自身、個人的にはヤラセだろう、と感じているんですけど、視聴者のなかには「絶対にヤラセじゃない!」と言う人もいるとかいないとか・・・
で、まあ僕が何を考えたかって言うと、この状況はマズイなと。
視聴者の何%かが、盲目的にヤラセではないと断言している、この状況がマズイなと思うわけですよ。
番組の内容がポジティブだからって、番組周辺(裏事情含め)も全てポジティブだ、とは言えない。
Aがプラスだからって、Bもプラスとは限らないんですよ。普通に考えれば分かることなんだけど、盲目的な視聴者は普通の状態じゃなくなってる。
この状態は非常にマズイと思うんだけど、皆はどう思うかな?
考え方って一つじゃないから、盲目的な考え方も決して否定はしない。けど、盲目的ってことは、他の選択肢や考え方が見えていないことでしょう?
「これだ!」っていう判断は、全て考慮に入れた上で(盲目的な考え方を排除した上で)、行われるべきだと思う。
なんか、そういう盲目的な人が周りに多いなーと思ったから、ちょいと書きましたが・・・。
マンガを読んでもいいじゃない。アニメを見てもいいじゃない。
お久しぶりです。ずっとこっちに手が回せない状況でして(忘れてたのもあるけど)、ひさびさのブログですね。
約9ヶ月ぶり?こうやってみると、毎日ブログ書いてる人ってすごいなぁって思います。ホントに。
さて、本題。
『ソードアート・オンラインⅡ』ってのを、最近見ています。一作目も見ていたんですけどね、戦闘モノのアニメです。
説明下手なんで、内容は書かないようにしますが、思ったことを少し。
近年、オタクって言葉が頻繁に使われるようになって、一般的に、「オタク=悪い」みたいな風潮があるように思われます。「中二病」ってやつもそうですね。
だけど、アニメやマンガも、労力をかけて作られているはずです。
「萌え」とかの要素が、一般的には受け入れられづらいのかもしれない。だけど、その中にも、何かしらの作者のメッセージがあると思うんです。作品ごと、一話ごとに、伝えたいことを含んでいる。
よく、「正義とか悪とか、お前中二病で気持ち悪いな!」とかいう人いるんですけど、いや、そりゃ確かに、いきなり駅構内とかで「俺の右腕が疼いている・・・!!」とか騒がれると迷惑ですけど、僕は嫌いじゃないです。迷惑だけど。
だけど、中二病だって、悪とされる事柄を、「それは悪だ!」と言ってるだけなんですよね。非常に婉曲な表現で。
たしかに言い方は婉曲かもしれないけど、言ってること自体が間違っているわけではないんです。むしろ、その正しさをあざ笑っている、この世の中の方がオカシイんです。まじめに考えたら。
こんなことを言うと、必ず「お前も中二病じゃねえか」って突っ込まれるんですけどね。僕は、そういうチャチャの入れ方は好きじゃない。
水だって有限です。これを皆に言ったところで、水道の蛇口を少し緩める人はいません。「俺1人でやってもムダさ」と自嘲するだけです。
マンガやアニメは、ある意味で夢を見させてくれます。そして、世の中の人は「夢ばかり見ずに現実を見ろ!」というわけです。
だけど、
夢を全く見ずに現実を生きていけるのだろうか?
自分の未来に期待してるからこそ、今を生きてるんじゃないのか?
未来に期待している状態を、「夢」と呼ぶんじゃないのか?
夢を見てるから、僕たちは現実を生きていけるんじゃないのか?
マンガやアニメが、勉強などの障害になっていると捉えている人がいます。別にそれは個人の考え方ですけど、夢を見ずに生きるのは、しんどいことだと思いませんか?
一歩踏み出すための指標として、夢を見てはダメですか?
現実で一歩踏み出す道具として、マンガやアニメを使ってはいけないですか?
マンガだろうが、アニメだろうが、自分を勇気づけることができるなら、誰にも、どこにも、批判する権利はないと思います。
文章の書き方。
中高生向けに書こうかしらん。
国語とか、評論文とか、感想文とかが苦手って人向けかな。
文章を書くときは、
まず、何について書くか。
次に、何が言いたいのか。
そして、どの順番で書くか。
が、大事。
最後に、しっかり文章を推敲して、誤字脱字がないか、順番は適切かを考えて完成。
たったこれだけなんだけどね。
この3つを抑えたら、少なくとも読み易い文章になるはず。
文章を書く、若い人が増えたらいいな。
グループワーク
さっそく本題に入る。
グループワークとは、その名の通りグループで仕事をこなすこと。
そのグループワークに必要なものは、
1.目的 2.目的の意義 3.協調性 4.個人のレベルの同調性
この4つである。
現在、私はグループワークをせねばならぬ状態にある。おそらく、読者の方も複数のグループの中にいるのではないだろうか。
そのグループについて、どう思ってるだろうか?
私は今のグループに非常に不満を抱いている。個人のレベルが全く違うことと、個人の方向性も違うからだ。そして何よりも、目的の意義自体がハッキリしていない。
つまり、上の2と4がハッキリしていない状態なのである。
目的もある、協調性もある。しかし、グループワークになっていない状態だ。
個人の意見が反映されないのと、個人の意見を言いづらい環境がそこにある。
自分の本心を言えない環境とは、なんと居心地が悪いのだろう。
どうなることやら・・・以上、愚痴でした。(#・∀・)
優柔不断。
22(に~に)です。もう不定期更新ですね。
さて、今回は優柔不断について。
僕もすごい優柔不断なんですよね。あれにするか、これにするかとか。
「これにする!」って決めると、即決なんですけど(笑)
で思ったのは、
『時間をかけて悩むこと』を、「優柔不断」と言うのだろうか?
ということ。
「いつまで悩んでんの!!」って怒られることはしょっちゅうなんですけど、それと優柔不断は、何か違う気がする。。
僕は、『決めてから、行動に移すのが遅いこと』を優柔不断だと思ってる。
考える時間を短くすることは、よく考えることを放棄してるように感じる。
「コレ!」って決めたら、即行動。「コレ!」って思うまでは、たっぷり悩んだほうが良いと思うんだよね。
最近ちょっと思ったこと、でした。(#・∀・)
心機一転。
投稿時間が空いてしまい、ほとんど読者がいなくなった感じがして寂しいです。
お久しぶりです。22(に~に)です。
この時期忙しいよね?ね?PCは立ち上げるんだけど、記事を書く気力が残ってないんだよねー。記事書くのもエネルギー使うし。
どうか見捨てないで(ノ∀`)タハー
さて、本題。
新しいことを始める時、自分では素晴らしいって思ってても、周りの人の評価が芳しくないってことは、多々あると思う。
言いたいことは、周りの評価ばっかり気にしないで!ってことなんだけどさ。
新しいことに反対する人って、けっこう多い。
だけど、それは「新しいこと」に対する情報が少ないだけであって、「新しいこと」自体が悪いわけではない。
ようするに、新しいアイデアは、すでに素晴らしいってこと。
もちろん、内容は吟味すべきだろうけど、古い伝統にメスをいれることは決して悪いことではない。むしろ、どんどんメスを入れるべきだと思う。
新しいアイデアに反対するのは、古いアイデアに慣れ親しんだ人たちだろう。そういう人たちは、おそらく、住み心地の良い環境を手放したくないだけではないのか。
断言は出来ないけど、僕にはそう見える。
新しいアイデアによって切り開かれる未来を、想像していないのだろう。もしくは、メスによって身体をズタズタにされる未来しか考えていないのだろう。
がん細胞を切除するとき、まずは身体を切り開かねばならない。そうせねば、がん細胞を”切除”することなど、出来やしない。身体を切り開くメスを怖がっていては、がん細胞をそのまま体内で育ててしまうことになる。
ときに、斬新は残酷でもある。革命は、それまでの悪を退治する代わりに、それまでの土地をも、焼け野原にしてしまう。使いどきを誤るべきではない、というのが、反対派の多くの意見だろう。
だが、ここで私が言いたいことは、2つある。
1つは、身体を切り裂いてでも、ガン細胞を取り除かねばならないということ。
1つは、身体を切り裂くメリットを、反対派はしっかりと理解しようとすること。
である。
身体に悪性のがん細胞があれば、取り除かないといけない。それで構わないと言うなら別だが、そうしないと日々の健康が蝕まれることになる。それはつまり、今後の日々の健康を取るか、明日生きるための皮膚を取るか、ということだ。
難しいかな?がん細胞を放っておいて、晩年ずっと病床で寝ているのと、お腹を切り開いて、完治するまでの約1ヶ月の病院生活をするのと、どちらを取るのかってこと。
そして、身体を切り裂く意味を、反対派は理解せねばならない。なぜ、身体を切り開くのか。なぜ、がん細胞を取り除くのか。まずはそこを理解しないといけない。
反対派の人たちは、昔からの伝統や規則によって、新しいアイデアを封じ込める癖があるが、どちらの方がメリットがあるのか、よく考えるべきだ。(今回はがん細胞を例にとってみたけど、もちろん、その場その場での対応は違うだろうし、伝統と最新の双方向を熟慮した上での判断なら、反論はない。)
結局のところ、自分の頭でしっかりと考えるってことと、今の安定だけを求めてたらいけないよってこと。
やっぱもう世代交代の時期なんだよなぁ・・・
「暗記の仕方」「勉強法」などの本や、記事に対しての私見。
久しぶりです。22(に~に)です。
気温が上がったり下がったり、体調不良が起きやすい季節ですね。毎日の気温によって着る服を変えています。ファッションなんて気にしてる場合じゃねぇ。
さて、最近ニュースとかネット上の記事とか見てると、「私は◯◯して、有名大学に受かりました!」とか、「毎日5分、◯◯するだけで成績が上がりました!」とか、多いですよね。ね?
まあ、受験シーズン(もう終わってる)ですしね。しょうがないですかね。
だけど、毎回思うんです。◯◯するだけで出来るわけないやないかい!って。
しかも、ときには悪質なのもありますよね。
「私は 365日、毎日10時間勉強して 一流大学に受かりました!!」
もうね、声を大にして言いたい。
お前は暇人なのか?と。お前、友達いたのか?と。遊んだ記憶はあるのか?と。
そろそろ本題に入りますよ。
結局のところ、その人によると思うんですよね。やり方って。
僕はね、方法をバカにしてるわけじゃないんです。その方法で成功してるから、騒がれてるんだろうし。
だけど、それは万人にあった方法ではないってことを、理解しておいてほしいんですよね。
一回教科書を読んで、全て暗記できる人もいれば、三回読んで覚える人もいれば、百回読んでやっと暗記できる人もいる。それは、人によって違うんですよね。当たり前です。
それを、今の人たちって「誰でもこの方法なら出来る!」みたいに言うのが、22(に~に)は嫌いなんですよね。
22(に~に)自身、記憶力が悪いし要領も悪いから、「この方法で何で出来ないの!?」って何回も言われたことあるんだよね。だけど、そんなん知らないよ。覚えたくても覚えられないんだもん。
話がそれたけども。
で、「方法」ってのはあくまでも「方法」なんだよね。当人のやる気とか、興味とか、好奇心を引き出すものではない。
結局、やる気が無いのに、覚えられないと思うの。だって、興味ないんだもの。
成功者たちは「この方法で出来たよ!」って語るけども、それはひとえに、興味・関心・好奇心があったからでしょ?って思う。
「その方法だから出来た」ってわけじゃなくて、「楽しく突き詰めてたら、いつの間にか出来ちゃった」って感じだと思うの。
極端な話、「22(に~に)が書いた本を明日までに覚えといて!」って言われても、「なんで?」ってなるだろうし、「知らない奴の本なんて、興味無いのに読まないよ」ってなると思う。
眠くなってきた。
だからね、僕が言いたいことをまとめると、
◯要は、方法よりも、やる気があるのか無いのかってこと。
◯要は、他人の成功本ではなく、自分のやる気を引き出す本を買えってこと。
「好きこそものの上手なれ。」好きじゃないものを、上手になってもねぇ・・・(#・∀・)