22(に~に)のブログ

日常を書きたい。書くことはない。思ったことを徒然と書いていきます。

ボランティア。

22(に~に)です。明日と明後日は近場のボランティアに参加する予定です。

 

 で、洗濯物を干しながら考えました。あ、一個人としての意見です。毎回書いてますが。もちろん賛成、反対の意見があると思います。何か感じるところがあれば、コメントでお願いします( ゚∀゚ )

 

 さて、ぼくはボランティアというものは、

 「自分が無理をせずに、自分が出来る範囲で、他人のためにする行動」

 のことだと思っています。

 

 で、街頭でよくボランティアサークルなる大学生を見かけます。

いやいや!決してボランティアを批判・否定するつもりはないですよ?

だけど、ボランティアに取り組むその姿勢が、僕にはすごく不思議に感じるんです。特に、遊びたい盛りの大学生が時間を削って人のために働く人が多いことに。

 

 いやいや!もう一度言いますけど、大学生の中にも、本当に「人助けしたい!」「人の役に立ちたい!」って人がいるのも知っています。

 ぼくの知人にもいましたし。現在は疎遠になって聞いてませんが、当時は「将来はNGO?NPO?(ごめん、忘れた)で人助けしたい」って言ってました。

 

 でね、ぼくの知人のように、将来本当に人助けする仕事がしたいって言うなら分かるんですよ。それが理由で、ボランティアサークルに入って活動しているんだ、とかなら。

 だけど、なんというか、かなり偏見なんですけど、今の若者ってアルバイトですら「あーめんどいー。しんどいー。やめたいー。」とか言ってるじゃないですか。給料を貰っているのに、そんなことを口に出すんですよね。

 そういった人たちが、はたしてボランティアなんか出来るのだろうか、って思うわけです。22(に~に)としては。

 

 

 ここからが難しいところなんですけど、めんどくさいと思いながらもボランティアをしてる人と、本心で人助けのためにボランティアをしてる人って、結局人助けしてることに変わりはないわけですよ。それは、ぼくも分かっています。

 だから、人によっては「そうやって考える22(に~に)は偽善者だ!」って思う人もいると思うんです。

 

 だけどね、ぼくは思うんです。やっぱりボランティアってボランティアなんだ、と。人を助けようとする、人の役に立とうとする、そんな気持ちが一番重要なんじゃないか、と思うんです。

 一番最初に書きました。

「自分が無理をせずに、自分が出来る範囲で、他人のためにする行動」

 がボランティアなのだと。

 

 めんどくさいと思いながらする行動は、自分が無理をしてるじゃないですか。だって、めんどくさいって思うんでしょ?

 数多くのボランティアサークルを見ましたが、中には僕の知人のように一生懸命にボランティアしてる人もいます。だけど、残念ながらアクビを噛み殺しながら、携帯電話をいじりながら、ボランティアしている人もいます。

 後者の人たちを見ていると、就職活動に有利になるからとか、友達を増やすためだとか、そういった意図が透けて見えることがあるんです。

 

 僕が決して言えることではありませんが、ブログの中の、僕の心の中の言葉です。

     甘ったれるんじゃないよ!人助けをナメるんじゃないよ!

 

 結局、彼らにとってボランティアとは、

 「自分が多少無理をして、自分が出来る最低限の範囲で、自分のためにする行動」

 なのではないかと感じるのです。

 「めんどくさい」という感情を抑えこみ、なるべく手間をかけず、他人の評価を上げる手段としてのボランティア・・・。

 

 している事は確かに、本気でしている人のボランティアと相違ありません。人の役に立っているのでしょう。

 しかし、決してアルバイト感覚でするものではないと思います。

 

 僕はボランティアの経験は多くはありません。ですが、予定が空いており、心身ともに手伝える状態であれば、なるべくボランティアに参加したいと考えています。

 しかし、ボランティア団体に入ることは考えていません。なぜなら僕は将来NPONGOなどに入ろう、というつもりが無いからです。

 

 「自分が無理をせずに、自分が出来る範囲で、他人のためにする行動」

これが僕の、22(に~に)のボランティアの価値観です。

自分に素直に、正直に、人を思いやる気持ちが、大切だと思うのです。

 そして、ボランティアというものは言われたからやります、というものではないと思っています。自らが「何かしたい!」ということが大切だと思います。

 

 

 最後にもう一度書きます。重要なことです。考えるべきことです。

どんなに僕のような言葉を並べても、「めんどくさい」と思いながらでもやる行動の方が、される側にとってありがたいことに変わりありません。

 しかし、はたしてそれを偽善と捉えるのか、はたまた、私の価値観を偽善と捉えるのか、それはあなた自身が決めることです。

 この問題は正の面と負の面を同時に抱え込んでいます。正と負を分けるべきではないのかもしれない。それでも、今後人間が考えなければならない問題だと、僕は思っています。哲学かもしれない。倫理学かもしれない。

 

(#・∀・)・・・「自分の、自分による、他人のための正義」

( ・`д・´)・・・「自分の、自分による、自分のための正義」