話の整合性と着地点について。
22(に~に)です。今日は、お風呂に入りながら考えたことを書きます。
話をしてるときに、「あれ?この人は何を言いたいんだろう?」って思うことが、最近よくある。
特に、目上の人が怒っている時、最初は仕事のミスを怒っていたのに、途中から性格の話に飛んだりする。やれお前はぐーたらだ、とかお前の育ちは云々とか。
そりゃ、第一にミスしたのが悪い。それは間違いない。
だけど、性格の話とかになったら、自分じゃどうすることも出来ない。だから、「何が言いたいのかな?」ってなる。最終的に、そんなに性格が嫌いなら、仕事を辞めさせればいいのに、って考えることもある。
だってさ、考えてごらん?「なんで仕事覚えられないの!」って言われてもさ、「覚えたくても覚えられないからです」って言うしかないじゃん。やる気があっても忘れることはあるし、やる気があれば何でもできるってわけでもない。
何というかな、偏見だけど昔の人って、「やる気で何とかなる!」って考え方を持ってる人多いじゃん。何度も言うけど、やる気=技術力 ではない。
で、話を戻すけど。
仕事のミスを怒っていたのに、性格を怒る話になるってのは、全く整合性がない。
そんでもって、話が上手く着地できないから、「まあ頑張れよ」ってなる。
頑張ってたけど出来なかったから、アンタは怒ってるんだろうが!!
なんかさ、「まあ頑張れよ」で締めくくるんならさ、要らないじゃん。まだ、「次は失敗すんなよ」ならわかるけどさ、それはそれで本人が一番気をつけるだろうし。
もう本当に生産性が無いよね。(断言)
組織や集団や個人が発展するために怒るなら分かるんだけどさ、過去の経験語るために怒るのは違うじゃん。
生産性がない話ってつまんないんだよね。次に繋がらないし。
ここまで書いて、大人から反論が来そうだから言うけど。
「ハッパをかけるために、喝入れたんや!」「頑張ってもらいたいから、怒るんや!」っていう人いるけど、詭弁だね。それか、本当に現場主義の人だろうね。
あのね、何度も何度も言うけど、そういうの古い。僕は好きじゃない。
経験でしか分からないことがある。その経験ってのは、失敗して生まれるもんでしょ?それを一々怒ってごらん?どれだけ時間を浪費してるのさ。
エジソンかアインシュタインか、誰か忘れたけど、彼らの失敗に一々誰かが怒ってたら、今の科学技術は今だに存在してなかったかもしれない。
僕は正直、ぬるい世界で生きていたい。そして、こういう考えの若い世代って多いと思う。なんでだと思う?
それはね、現代には、「昔の人」が多すぎるから。僕らが何もしなくても、「昔の人」たちが汗水流して、やる気を出して、支えてくれてるから。
僕は決して、「昔の人」を褒めてるわけじゃない。尊敬もしてない。
あのさ、そろそろ、世代交代してもらっても、いいですかね?
あなたたちがいるから、我々若い世代は、働きたくないでござるよ。
そもそも、働こうと思わないでござるよ。だって、寝てても何でも揃うんだもの。
「昔の人」の技術力は、確かに今の日本を支えている。だけどその一方で、「昔の人」の考え方ってのが、若い世代のニーズに合っていなくて、阻害している。
今では十分、モノが溢れていて、好きなモノを自分で手に入れることが出来るのに、「人のために働け!」なんて考え方は、古いんだよ。
話ズレるけど、結局「みんなのために!」って考え方が、「みんな一緒に!」ってなってると思うんだよね。就活とか就活とか就活とか。
そろそろ、引導渡してください。お願いしますm(_ _)m
ほら。ちゃんと着地したでしょ!?
実体験から入って、それの反論になって、社会批判になる!
この話の流れが、「整合性」。そして、「引導を渡せ」っていうのが、着地点。
性格直せ!っていうのは難しいけど、引導はすぐ渡せるでしょ?(笑)
まあ、整合性については、簡単に説明しすぎた感は否めない。
とりあえずこんなことを考えました。
ダメだ、今日は眠い。寝よう。おやすみ~(#・∀・)