22(に~に)のブログ

日常を書きたい。書くことはない。思ったことを徒然と書いていきます。

なぜ罪を犯すのか。

《「少年犯罪は厳罰化しても減少しない」 少年法改正の動きに弁護士が「異論」》

っていう記事が、ニコニコ動画を見てたときに流れたので、ここから話を始めよう。

 

目次。(今回めちゃくちゃ長いからね。最初っから最後まで真面目なトーンだし。)

1.記事の内容・整理

2.罰によって犯罪数が増減するのか

3.罪の意識

4・なぜ罪を犯すのか

5.実は論点がズレている今回の記事

 

1.記事の内容・整理

 

 まずは、この記事の中で、弁護士は「少年が非行を犯す原因は、大きく分けて2つある。」としている。1つ目は、発達障害の場合。2つ目は、幼少期の虐待を受けていた場合。

 

 (断っておくが、どちらの場合も、『その状態になる=犯罪を犯す』ということではない。つまり、発達障害だから罪を犯す、というわけではない。ここを間違ってはいけないし、私自身もそのようなつもりで記事を書いたのではない。念のため、言っておく。)

 

 弁護士は、この2つが要因で少年犯罪を起こし、この犯罪を防ぐためには「厳罰化」の効果は薄い、と考えている。だからこそ、厳罰化を進めるのではなく、そもそも罪を犯さない仕組みや、児童虐待を防ぐことが大切だ、と言っている。

 

 さて、まずは皆さんにお聞きしよう。

あなたは、罪を重くすることによって少年犯罪は減少すると思いますか?

 

2.罰によって犯罪数が増減するのか

 

 では、私の意見を述べよう。

私はそもそも、「罪を重くすること」と、「犯罪の発生率」とを、同列に扱ってはいけないと考えている。これは、”比重の問題”と”数の問題”であり、いわば別次元の問題である。

 

 たしかに、罪を罰する機能がないと、スリや強盗・殺人やバスジャックなどを起こし放題になる。だから、罪を罰する機能は必要だ。

 つまり、罰の有無は、犯罪発生率の増減に関わる、と言える。

 

 だが、罪を重くしたとしても、罪を犯す人は犯すだろう。もちろん、罪を重くすることによって萎縮させ、犯罪を起こしにくくすることもあるだろう。

 しかし、罰の比重は、犯罪発生率に必ずしも関わらない、とも言える。

 

 

 なぜなら、罪を犯す人は犯すから。決して、運命だからとかは言いません。

例えば、あなたは怒るなと言われて、何をされても怒らない自信はありますか?

 ・・・おそらく無理でしょう。何をされるかは、想像に任せますが。

 

3.罪の意識

 

 多くの場合、人が罪を犯す時は、自分で分かっています。

 「殴ったらいけないことは分かってる。だけど、それでもコイツを殴らないと気が済まない。」 おそらく、こんな感じです。言うなれば、許容範囲の限界を超えて、そして行動に移る、という感じです。

 

 ニュースなどで、「頭が真っ白になってやった。気づいたら倒れていた。」とよく聞きますが、行動する(殴る)瞬間の記憶は、実はほとんどありません。それは、殴る瞬間は『コイツを殴る』ということしか頭になく、『記憶する』ということすら頭に残っていないのです。つまりほぼ無意識なのです。そして、ハッとなって我にかえるのです。「とんでもないことをしてしまった。」と。

 

 ですから、殺人事件の容疑者が供述するように、殺害理由と、事後処理のことはハッキリと憶えているのです。なぜアイツを殺害し、どうやってアイツを隠したのか。それは非常にハッキリ答えられる。

 しかし、アイツを何発殴ったのか、右手で殴ったのか左手で殴ったのか、ということについては、ハッキリと思い出せない。

 こういうことが多くあるのです。

 

 さて、これらをまとめましょう。

 まず、犯罪を犯すときに、多くの場合、それが「悪いことだ」ということは、ちゃんと理解しています。(弁護士の話にありましたが、発達障害で罪を犯した人には、もしかしたら理解していないかもしれません。)

 

 次に、「コイツを殴ろう」と思っているときには、まだ意識があります。しかし、コイツを殴っている瞬間(もしくは殴っている間)は、ほぼ無意識です。欲望のままに拳を振るうだけです。

 

 そして、コイツを殴り終わった後に、意識が戻ります。そこではじめて、我にかえって後悔することになります。

 

4.なぜ罪を犯すのか

 

 ここから言えることは、「なぜ罪を犯すのか?」という問いに対して、多くの人は、「悪いという認識がないのでは?」ということを言います。

 しかし、それは間違いなのです。多くの場合、悪いという認識は持っているのです。罰を受けるということも分かっているのです。

 

 ただ単に、我慢の限界を超えてしまっただけなのです。

 

 もしかすると、「それぐらい我慢しろよ」と思うかもしれません。「手をだすのは絶対ダメだ」と思うかもしれません。

 しかし、有名なサッカー選手が家族の悪口を言われ、頭突きをした事件がありましたが、漢(おとこ)には引いてはならぬ戦いもあるのです。・・・嘘です。冗談です。

 

 ですが、今の時代では、「手を出した方が負け」というルールがあります。ある意味で当然ですが、しかし、そのルールには致命的な欠陥があります。

 それは、どれだけ悪口を言ってもいい、ということです。バレなければいい、ということです。言って許されることと、言って許されないことは、世の中に多くあります。

 そして、殴られた側(被害者)によくあるのは、手は出していないけれど、悪口やちょっかいをかけていた、ということが多くあります。私は正直、殴られるのも自業自得だと思います。我慢の限界を超える言動をして、相手を怒らせて遊ぶのは最低な行為です。

 

 人の身体を傷つける暴力はダメと言いますが、人の心を傷つける暴力は許されるのでしょうか? 私にはそれが理解できない。

 

 

 「罪を犯す人は犯す」と書きました。その意味は、罰があろうと無かろうと、我慢の限界を超えることが起こったときに、それを制御することは大変難しい、ということです。

 だから、罪の比重は大した問題じゃないし、犯罪の発生率とはあんまり関係ないと感じます。(全く関係ないとは言わないけど。)

 

5.実は論点がズレている今回の記事

 

 ニコニコの記事に戻るけど、この記事、実は微妙に論点をずらしてる。「なぜ犯罪は減らないのか?」っていう問題を、「犯罪を減らす方法は?」って置き換えてる。

 

 それはどうでもいいんだけど、これまでの話から、罰の比重と犯罪発生率はあまり関係ないってことが分かった。そして、罰の有無と犯罪発生率は関係があるということも分かった。

 これは、極端に言えば、死ぬか生きるかだけの判決で良いわけだ。なぜ厳罰化、つまり罰の比重が求められるのか?・・・分かるね?

 

 それは、情状酌量というものがあるからだ。正当防衛などの、人を傷つける行為によっぽどの理由がある場合、それを加味して罰が軽くなることがある。

 この場合、大切なことは「犯罪を減らす方法」ではなく、「なぜ犯罪を犯したのか」ということだ。弁護士ドットコムの記事では、そこが明らかではない。

 一端のライターなら、しっかりと書いてもらいたいものだ。

 

 

「暴力を振るうこと」が問題になるけど、「暴力を振るわせた原因」を探ることって、けっこう大事。そこまで考える人ってなかなか居ないけど、実はそこが一番大切なんだよね。( ・`д・´)

 

疲れた。2時間くらいPCに向き合ってたよ・・・真面目なヤツだからしょうがないけど。。

それじゃ、またねー。

画像テスト。

f:id:konntonnkaosu:20140226002145j:plain

 テストなう。

今日はまだ飲んでないよ(笑)これから飲もうか。

なんか面白そうな機能を発見してしまった。(はいそこ、「え、いまさらww」とか思わない!)

 

 これからちょいちょい画像をあげようかしら。幅が広がりましたな。

はい、テスト終~了~。

 

 

 

難しいことは分からん。

 お久しぶりです。22(に~に)だよ。

いやー、ボランティアしてきました。自分も楽しかったし、楽しんでもらえたし、良かったなーって思ってます。

 はい、ボランティアの話はここまで。(笑) 特定されても困るし(笑)

 

 では、本編に入ろうか。今日は、本当に感想だけだけど。

 ブログを書くようになって、色んな人のブログを拝見するようになりました。新しい発見とか、違う考え方があると、「なるほど!そうくるか!」っていうことがよくあります。

 

 だけど、たまに理解できないこともあります。22(に~に)の理解力が無いだけなんだけどね(^_^;)

 特に、難しい単語とか、言語とか、言葉の遣い方とか。筆者の主張すら分からないこともある。

 

 そういうモノを見て、自分は気をつけようって思いました。(小並感)

 

 難しいんだよねー。分かりやすくしたいんだけど。

感想だから、ここまで!(笑) 

 

 次はもうちょいマシな文章書きます(笑)⇠

ボランティア。

22(に~に)です。明日と明後日は近場のボランティアに参加する予定です。

 

 で、洗濯物を干しながら考えました。あ、一個人としての意見です。毎回書いてますが。もちろん賛成、反対の意見があると思います。何か感じるところがあれば、コメントでお願いします( ゚∀゚ )

 

 さて、ぼくはボランティアというものは、

 「自分が無理をせずに、自分が出来る範囲で、他人のためにする行動」

 のことだと思っています。

 

 で、街頭でよくボランティアサークルなる大学生を見かけます。

いやいや!決してボランティアを批判・否定するつもりはないですよ?

だけど、ボランティアに取り組むその姿勢が、僕にはすごく不思議に感じるんです。特に、遊びたい盛りの大学生が時間を削って人のために働く人が多いことに。

 

 いやいや!もう一度言いますけど、大学生の中にも、本当に「人助けしたい!」「人の役に立ちたい!」って人がいるのも知っています。

 ぼくの知人にもいましたし。現在は疎遠になって聞いてませんが、当時は「将来はNGO?NPO?(ごめん、忘れた)で人助けしたい」って言ってました。

 

 でね、ぼくの知人のように、将来本当に人助けする仕事がしたいって言うなら分かるんですよ。それが理由で、ボランティアサークルに入って活動しているんだ、とかなら。

 だけど、なんというか、かなり偏見なんですけど、今の若者ってアルバイトですら「あーめんどいー。しんどいー。やめたいー。」とか言ってるじゃないですか。給料を貰っているのに、そんなことを口に出すんですよね。

 そういった人たちが、はたしてボランティアなんか出来るのだろうか、って思うわけです。22(に~に)としては。

 

 

 ここからが難しいところなんですけど、めんどくさいと思いながらもボランティアをしてる人と、本心で人助けのためにボランティアをしてる人って、結局人助けしてることに変わりはないわけですよ。それは、ぼくも分かっています。

 だから、人によっては「そうやって考える22(に~に)は偽善者だ!」って思う人もいると思うんです。

 

 だけどね、ぼくは思うんです。やっぱりボランティアってボランティアなんだ、と。人を助けようとする、人の役に立とうとする、そんな気持ちが一番重要なんじゃないか、と思うんです。

 一番最初に書きました。

「自分が無理をせずに、自分が出来る範囲で、他人のためにする行動」

 がボランティアなのだと。

 

 めんどくさいと思いながらする行動は、自分が無理をしてるじゃないですか。だって、めんどくさいって思うんでしょ?

 数多くのボランティアサークルを見ましたが、中には僕の知人のように一生懸命にボランティアしてる人もいます。だけど、残念ながらアクビを噛み殺しながら、携帯電話をいじりながら、ボランティアしている人もいます。

 後者の人たちを見ていると、就職活動に有利になるからとか、友達を増やすためだとか、そういった意図が透けて見えることがあるんです。

 

 僕が決して言えることではありませんが、ブログの中の、僕の心の中の言葉です。

     甘ったれるんじゃないよ!人助けをナメるんじゃないよ!

 

 結局、彼らにとってボランティアとは、

 「自分が多少無理をして、自分が出来る最低限の範囲で、自分のためにする行動」

 なのではないかと感じるのです。

 「めんどくさい」という感情を抑えこみ、なるべく手間をかけず、他人の評価を上げる手段としてのボランティア・・・。

 

 している事は確かに、本気でしている人のボランティアと相違ありません。人の役に立っているのでしょう。

 しかし、決してアルバイト感覚でするものではないと思います。

 

 僕はボランティアの経験は多くはありません。ですが、予定が空いており、心身ともに手伝える状態であれば、なるべくボランティアに参加したいと考えています。

 しかし、ボランティア団体に入ることは考えていません。なぜなら僕は将来NPONGOなどに入ろう、というつもりが無いからです。

 

 「自分が無理をせずに、自分が出来る範囲で、他人のためにする行動」

これが僕の、22(に~に)のボランティアの価値観です。

自分に素直に、正直に、人を思いやる気持ちが、大切だと思うのです。

 そして、ボランティアというものは言われたからやります、というものではないと思っています。自らが「何かしたい!」ということが大切だと思います。

 

 

 最後にもう一度書きます。重要なことです。考えるべきことです。

どんなに僕のような言葉を並べても、「めんどくさい」と思いながらでもやる行動の方が、される側にとってありがたいことに変わりありません。

 しかし、はたしてそれを偽善と捉えるのか、はたまた、私の価値観を偽善と捉えるのか、それはあなた自身が決めることです。

 この問題は正の面と負の面を同時に抱え込んでいます。正と負を分けるべきではないのかもしれない。それでも、今後人間が考えなければならない問題だと、僕は思っています。哲学かもしれない。倫理学かもしれない。

 

(#・∀・)・・・「自分の、自分による、他人のための正義」

( ・`д・´)・・・「自分の、自分による、自分のための正義」

 

一人の流儀。

孤独のグルメ」ってドラマがある。原作はマンガなんだけど、内容はおっさんが飯を食べるだけ。

 は?って思うかもしれないけど、本当にそれだけ(笑) それ以上でも、それ以下でもない。そこが面白いんだけど。

 

 で、その「孤独のグルメ」をさっき見たんだ。その中に、「一人焼肉ができることが、大人の条件」みたいなことを言ってたの。あんまり覚えてないけど(笑)

 

      そこで、思ったことが2つある。

 1つ目は、周りに一人で気軽に入れる飲食店が少ないということ。

 2つ目は、一人でいれる人間が少ないということ。

 

 1つ目からいこうか。

 最近になって、こういうおっさんが主人公の料理ドラマを見るようになった。どうも22(に~に)には、おっさんくさいところがあるみたいで、こういうドラマの方が落 ち着くんだよね(笑)

 芸人が料理をリポートする番組ってけっこうあるじゃん?だけど、なんというか、芸人の話が主題なんだよね。そういう番組って、料理が主体じゃなくて、あくまでも芸人が主体なわけだ。当然といえば当然だけど。

 でもさ、100g何万円もするステーキが不味いわけないじゃない。「すっごい柔らかくてジューシーです!」みたいなレポートを聞くと、すっごく胡散臭いというか、安っぽい感じを受けるんだよね。その程度の言葉で表現するの?みたいな。

 その点、「孤独のグルメ」とかは素直な言葉で、素直に表現するの。例を出すと焼き肉屋では、「肉だ。こいつは肉だ。俺は今、百獣の王だ。」っていうことを言うの。ど真ん中ストレートだよね(笑) はいそこ、アホらしいとか言わない。

 

 

   また話がズレる。

 で、まあ何が言いたいのかっていうと、こういった、一人で時間を消費できるお店ってあんまり見かけないよね。一人で料理の旨さに感動して、一人で感傷にひたることってあんまりない。

 一人だけの時間ってけっこう貴重だし、特にSNSで24時間繋がっている若者には、必ず後々おおきな反動がくると予想している。

 

 核家族とか、結婚しなくなったとか、ぼっち(※ひとりぼっちの略)が増えたとか騒がれてるけど、今やそこらじゅうにファミリーレストランが普及している。

 別に、ファミリーレストランがなくなればいいとかは思ってないし、お一人様限定のお店を作ろう!と言ってるわけでもない。

 だけど、これからの時代、確実に一人カラオケ、一人喫茶店、一人ボーリングなどは流行ると思う。流行るというか、需要が高まるって感じかな。

 

 で、2つ目に入るけど、やっぱりSNSとかインターネットで現代人は繋がれているんだ。誰であってもそう。画面を見ない時間が唯一、一人だけでいれる時間じゃないかな。

 日本社会っていう大きな問題になるけど、日本人は集団行動を好むよね。あの人が言うからそうする。あの人がしたから真似する、とかさ。

 若者に覇気が無くなったっていう大人がいるけど、そういう人たちも結局は他の人が言ってることをコピーしているに過ぎない。何よりも、大人たちが若者をそうさせている。若者を規範っていう枠組みに閉じ込めるだけ閉じ込めて、壁をぶち壊すくらいの勢いを出せ!って言われても、若者がどうすればいいいのか分からないっていうのは当然だ。どちらにせよ怒られるんなら、何もしないのが一番賢明なんだから。

 

 こういうことを、チームのトップ、企業のトップ、社会のトップ、国のトップが考えないといけない。組織は個人の集合体。個人のことを考えないのに、組織が上手く回るはずはない。

 

 一人の流儀ってのは、決して自分勝手な考え方のことではない。

相手という個人=一人のことを考え、自分という個人=一人のことを考えて行動することである。

 また、このことを考えること自体が「一人の流儀」と呼ばれるものなのだ。

 

 

 とまぁ、こんな感じですかね。「孤独のグルメ」面白いので、見てみてください。回を重ねるごとにじわじわとくるので。(笑) 旅歩きみたいな番組が好きな人は、きっと気に入ると思います。

 

「一人」ってのは、「一人以外」がいないと「一人」じゃなくなるんだよね。(#・∀・)

写真を撮るということ。

 外出先での雰囲気の良いお店で写真を撮りたい、22(に~に)でございます。

珈琲とか、ケーキとか、料理・スイーツ、インテリア、風景や情景などなど・・・

写真撮りたいんだけどなー。アップしたいんだけどなー。

 

 皆さんどう思います?飲食店であっちでパシャパシャ、こっちでパシャパシャ・・・

 22(に~に)はね、一回もお店の中で写真を撮ったことがないんですよ。あ、テーマパークとか、撮影OKの博物館とかではありますよ。主体が自分たちとかなら撮りますね。

 

 そう。22(に~に)が感じるのは、撮影される主体が、自分たちだったら写真を撮るのは構わないと思う。

(※主体=被写体のこと。ちょっと分かりやすくするため。)

 だけど、撮影の主体がお店の料理であったり、珈琲カップであったりしたら、許可を求めないといけないんじゃないかな、って思う。

 

 別に、著作権うんぬんを言うつもりじゃないよ。22(に~に)はそう思うってだけで。

 

 こういうことを言うと大抵、「写真くらいいいじゃん!」とか、「宣伝にもなるし、いいじゃん!」とか言ってくる人がいるんだよね。

 確かにその通りだし、僕が古いだけかもしれない。

 

 だけど、そう思ってるのは、「撮影してる側の意見」なんだよね。いわば、一方通行な意見なわけだ。

 「宣伝になる」それは事実だと思う。ここまでネットが普及したから、「どこそれ!?美味しそう!」みたいになる可能性は高い。でも、店側が「宣伝してもらいたい」と言っているわけではない。

 

 僕が言いたいのは、撮影は止めましょう!ってことじゃない。

 ただ、撮影することを不愉快に思う人がいないかってことを確認してほしい。

僕に確認しろって言ってるわけじゃなくて、お店側に一言いるんじゃないかな、ってこと。

 

 美味しそうな料理が出てきて、いきなりパシャじゃなくて、「美味しそうですね!写真撮ってもいいですか?」って言ってほしいな。

 つまり、「お姉さん!美人ですね!写真撮らせてください!」って一声かけてから写真を撮ってね、って話。何も言わずに写真撮ったら、盗撮と変わんないでしょう?

 知らない間に盗撮されて、あんまりいい気分にはならないじゃん?

 

 何度も言うけど、お店で写真を撮るなって話じゃないし、毎回許可取れよって話でもない。ただ、写真を撮る側の一方的な意見だけじゃなくて、ちょっとは撮られる側のことも考えてねってお話。

 

 まぁ、これからの時代なら『料理の写真を貼って、どんどん宣伝してください!』くらいの張り紙があってもいいと思うけどね(笑) 多分、いい宣伝になると思うんだけど(笑)

 ・・・何気なく書いたけど、いい案かも。やってみようかしらん。

 

記事を書く。

 拝啓 この手紙 読んでいるあなたは どこでなにをして いるのだろう

アンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓十五の君へ」の出だしです。

 NHK合唱コンクールの課題曲でもありましたよね。懐かしい。

 

 なんか久しぶりに聞きたくて、色んな動画サイトを回った一日でした。そこ、暇人とか言わない。

 明日からは予定があるんだけど、今日は取り立てて何もなかったので記事にするようなネタが無かったんだよねー。

 

 で、まあそっから考え始めたんですけど。ブログって、自分のことをダラダラと書けばいいのかしらん。それとも、読者を意識して若干のネタを盛り込んだ方がいいのかしらん。

 今までの僕の記事は、僕の頭の中の引き出しを見せてるって感じなんですよね。興味があればとっ突いてもらえばいいし、興味が無ければスルーでいいよって感じ。

 

 理想としては、僕も読者も興味のあるネタがあれば良いんだけど・・・何と言うか、僕の日記を見て面白いって言う人がどれくらいいるかだと思うんだよね。

 

 

ちょっと、整理しようか。分かりやすいように、AとBにわけるね。

 A: 僕が「本屋行ったよ!」って言って、読者は「それで?」って感じな状態。

 

 B: 僕が「本屋行ったよ!それで、こんなこと考えたんだ!」って言って、読者は「そうなんだ!私はこう思うよ!」って返せる状態。

 

 この場合、Aが日記で、Bがネタのある日記。

 Aの場合だと、ほぼ確実に読者はいない。(断言)

書いてる内容にもよるだろうけど、◯◯行きました!って日記を、毎回見ようとは思わないだろう?TwitterとかFacebookなら分かるけど、、ブログだし。。

 

 で、僕が悩んでるのは、"それで、こんなこと考えたんだ!”っていう部分を、入れるべきか、入れなくてもいいのかってところ。

 言っとくけど、AにするのかBにするのかってことで悩んでるわけじゃない。

 

 毎回毎回、こんなこと考えた!って言うのもな~。でもそうしないと話題がないしな~。暇だから何か書きたいんだけど、書くことがないのは辛いのぅ~。

 

 色んな人のブログ見てこようかなー。なにかいい書き方とか、話題とかブログとかあったら教えて下さいまし。

 内容が固いんだよねー。もうちょっと柔らかく表現できないかしらん。